パルメザンの感想記事まとめ

ストップモーションを使用している作品や、アートアニメーション、映画、映像作品の感想、解釈、妄想などを自分用に纏めるためのもの。 ここと同じ趣旨でやっているTwitter→@QNpzcHeyiagTnVV

※ネタバレあり※君たちはどう生きるか(私は一体何を見せられたんだ?)

バリバリにネタバレを含んでますので、ご注意ください

(新作見てから、この作品や監督に対してふっと思う事がある度に追記していますが、詳細な日付は一切記載していません。)

 

 


君たちはどう生きるか

不思議の国のアリスだったし、白雪姫筆頭にグリム童話だったし、杉井ギサブローの猫の銀河鉄道の夜(プリオシン海岸に通じる駅のタイルや内装にそっくりだった背景がある)の夜だったし、ポール・グリモーの王と鳥だったし、新海誠監督の星を追う子ども要素っぽいところもあったし、イザナギの黄泉下りだったし、生きて帰りし物語だったし、宮崎駿作品のキャラクターオールスターズスターシステム的要素があったし、それらの要素全部コミコミでちゃんとファンタジーの旅路を得て現実を直視して向き合えるようになるってお約束をこなしていた

 

なんだったんだ……マジで……映画終わったあと、誇張とか抜きに本当に放心していた

作品全体としては結構視聴者置いてけぼりで話がどんどん進んでいっていた感覚

(私の個人的感覚かもしれないが)

 

冒頭の大規模火災のシーン、日本のアニメーションで大規模火災を扱ったアニメ作品だと大友克洋のshortpeaceの「火要鎮」とか、それこそジブリ風立ちぬ関東大震災のシーンとかが有名だけど、それらと遜色ないアニメーションだったと思う

本当に眞人が家事の中に突っ込んで行ったのか、母親を助けられなかった眞人が繰り返し自分の中で育んでしまった呪われた夢では無いのかとも思う

現実なら眞人これ絶対身体中火傷して療養してるよね

燃え上がる=浄化の面があるけれども知り合いの家が家事になったことがあるので、火事をあんまり綺麗なものと描写されるのは少し複雑だが……

婆ちゃんたちは、最初七福神みたいだなと思ってたが、これブラウニーとか家に住み着く家事妖精のイメージの方が強いな

 

宮崎駿、本当に婆さん好きだな

眞人の母親が火に包まれて亡くなっていくシーンは、聖母の被昇天とか埋め立てられた塔に入り込もうと眞人が無理やりガレキと土砂の中に体を入れようとするシーンは胎内回帰的なものかと思ったが……

宮崎駿鬼子母神的なものにしても、聖母的なものにしても強すぎる母性本当に好きよな

父親の再婚相手の人(記憶力が悪いので名前を忘れてしまった)赤ん坊がいる喜びが勝ってたんだろうが、眞人にお腹を触らせるのちょっとデリカシーないな〜

 

地下に赴き産屋に入る、というのはイザナギが亡くなったイザナギを生き返らせて欲しいと黄泉まで行ったのに、黄泉の神とイザナミが相談中に腐った姿を見てしまい、裏切られたと感じたイザナミに追いかけられ、黄泉比良坂でよくも私を辱めたなお前の国の人間を毎日○○人殺してやると呪いをかけられたイザナギが、ならば私は1毎日○○個の産屋を建てようと言い返した神話を合体させたのか?と思った

 

 

身篭った体で地下に連れてこられて、産屋で赤子を産まさせるのは、産まれた子を世界の調整役の大叔父の後継者にするため?

というか大元の塔がある日それから降ってきたのは正直安直かつ突飛過ぎたな

世界の管理者、調整役、神として君臨し続け仕事をこなすのに疲れた

大叔父はこの世界を終わらせる口実が欲しかっただけなんじゃないのか

悪や悪い心がなくとも、その余地に良きものが入り込んだり新しきが自然発生する訳ではなく、ぽっかりと幾つもの穴を抱えて歪なまま世界は運行していくのかもしれない

現実なら善と悪もそれ以外の概念も常に混沌としていて太極図が食い合うように存在しているから、成り立つけれども、なにかの要素が欠けている世界はその分運営者が介入しないと均衡がとれなくなりすぐ滅ぶ(ちょっと原作ゲド戦記ぽい)

それがあの絶妙なバランスで成り立っている象徴的な積み木なのでは

 

産屋で眞人に対してあなたなんか大嫌い!って言うのは、危険な場所から早く出ていって欲しい親心でキツく言ったんだろうが、相手の前妻との間の連れ子だから気に入らないって気持ちがほんの少しはありそう

ちょ待てよキムタク、キムタクが声優でいるじゃん

眞人が、礼儀正しいけど親の気を引きたかったのかむしゃくしゃしたのかなんなのか、石を使って自分で大怪我するという不安定な部分もあるクソガキでなんか安心した節がある

鏑矢が効いていたってことは鷺男は「魔」に該当する存在なのか

眞人自作の矢が効いたのは、人間の唾が魔除になるから澱粉ノリとして咀嚼したコメをつけた時のやつかなと思ったが、単に羽が持ち主に帰ろうとしてるだけなのか、風切りの7番……?

傷つけたものしか傷は癒せないのはなにか御伽噺の定番っぽい匂いを感じたが、ぱっと思いつく話がないな

 

鳥に地底の国(この作品では異界、常世、幽世、黄泉、根の国を全部ひっくるめた処だろうか)道案内させるて、自分でカリオストロの城のオマージュだけで終わらせたくなくて「王と鳥」を再構成して作りたかったのかな

最後に王国を崩壊させるの意味合いが、「王と鳥」のラストをなぞるオマージュの意味合いじゃなくて、破滅のカタルシスがある山尾悠子作品みてーだった

……鳥の王自身に王国どころか世界を終わらせるって、絵に描かれた王自身の暴挙(ロボット操作)で城が破壊されていくラストを描いたポール・グリモーに対してなんかすごく皮肉っぽいんだが、でも、 鳥たちの王は民にも部下にも慕われていたし少なくとも臣民にとっては暴君じゃなさそうだしなー

短期で愚かな部分がありそうだけど

公開前はタイトルで説教要素があるなんて持て囃されたけど、無理にその要素を拾い上げるなら、王と鳥の横暴なシャルル王のように理想的に作り上げた閉じた世界に閉じこもってもいつか崩壊するもので、いい加減オタクに現実に帰れって言われる今敏監督の「妄想代理人」ぽいところか?

言うほどタイトルの、視聴者にこれからの生き方を問いかけるような要素やタイトルの元になった書籍の要素はさほど強くなかったなーという印象

本がストーリー上の物理的なキーアイテムになるわけでもなかったし

あと人食い凶暴インコが大量に出てくる……公開前の自分にこんなこと伝えても絶対嘘だって思われるな……

 

別に新作を見た上でそう思った訳ではなく、もうずっと前から思ってたけど、もう日本アニメ史上これほど才能のある人間は現れないだろうなと思う

 

 

ヒミ様のドカ盛りジャムパン狂奏曲 (元ネタかふちゃんのかれーうどんきょうそうきょく(ネタバレ踏むの嫌な人のための検索避けひらがな表記) 眞人にマーガリンとジャムドカ盛パンを食べさせているところで既にヒミは目の前の男の子が未来の自分の息子だと気づいていたんだろうなぁ、大切な者に食べ物を食べさせる行為は愛や母性そのものだなと考えていたのに何故かこんな絵になった



 

 

 

「キリクと魔女」の魔女カラバの背中に刺さっていた「棘」についての個人的な考察※ラストまでのネタバレあり

※本文中には、ミッシェル・オスロ監督の劇場アニメーション作品、「キリクと魔女」のラストまでのネタバレが含まれます。まだ本作品を視聴したことがない方、ネタバレを踏みたくない方は、ご注意下さい。
本作品は、DVDやBluRayの取り扱い、Amazonプライムビデオなどでも販売、レンタルがあります。未視聴の方、興味がある方は、是非ご覧下さい

​────────以下ネタバレ─────────


主人公である、小さいけれども勇敢なキリクは、おじいさんである森の賢者に、なぜ魔女(以下カラバ)は人を苦しめるの?と聞く。
おじいさんは、その答えに、カラバの背中には「棘」が刺さっていて、その痛みによってカラバはたいへん苦しんでいるが、同時に絶大な力(作中では魔力か)を得ている
その棘は、男たち(村の男達か、よその村の男たちかは分からない)によって、無理やり背中に埋め込まれたもの、それを刺された時に誰にも想像できないぐらいの「痛み」を味わった、その棘はちょうど背中の真ん中にあり、自分では届かない、深く打ち込まれているから、手ではなく歯でないと抜くことが出来ない、それから抜かれると、打たれた時と同じぐらいの「痛み」を感じる、魔力を失ってしまうので、魔女は誰にも背中を見せないよう、家の戸口にたって、家から一歩も出ないようにしている、と説明をする。
それを聞いて、キリクは、根っからの意地悪だから村人を困らせているのではなく、カラバも哀れな存在なのだと理解する。
(でもカラバの性格が意地悪な部分が少しはあると思う)

なぜ、このような「棘」を背中に刺されるようになってしまったのか?

この、カラバの背中に打ち込まれた「棘」について、作中では私たちが棘と聞いて想像するレベルの大きさではなく、釘と言ってもいいぐらいの大きさで、血が滴っている訳では無いが、キリクによって抜かれる。(ここのシーンの声優さんの絶叫が本当に凄かった。声だけで痛みが伝わってくるようだった)
カラバは、その場に居るだけで周囲の植物を枯らしてしまうほどの程の禍々しい力(魔力)を無くしてしまうが、今度は代わりに、美しい楽園に生えるような花や植物が周囲に咲き乱れ、(ここのシーンも本当に素晴らしい。多くの人に見ていただきたい)
お礼に口付けをしておくれと言ったキリクに、口付けをしてあげると、キリクはなんと立派な体の、大人の男へと変貌する。
そこで、キリクはカラバに対して、お前は力の全てを無くした訳では無いんだよ、と言う。

(ここから完全に、自分の解釈がかなり入った考察になります)

という事は、カラバは「棘」によって魔力を得て魔女になり、その力を悪用していたが、もともとそれなりの力があった女性という可能性がある。
以前に、それを自覚していたのかどうか分からないが、だとしたらどこかの村で、シャーマンや占い師のような事をして暮らしていたのかもしれない。
儀式によって神や精霊と繋がりその年の作物の実りや、日照りや雨が降るかどうか、天候の具合も預言する。
悪い力を失っても、美しい花が咲いたり、口付けによってとても小さいキリクが逞しい青年に成長する描写を元にすれば、元からとても強い、良い力を持っていたという可能性もあるので、占いの精度などもかなり高かったのではないのだろうか。
しかし、初めは村人達もカラバの能力に対して感謝をしていたが、カラバの占いというよりは預言じみているその力に段々と感謝や畏怖よりも、恐怖の感情を強く感じ始めたとしたら?
だんだん恐ろしくなった村人達か男たちは、カラバを捕まえて、無理やりに「棘」を埋め込んでしまう・・・
いや、これでは辻褄が合わない
カラバの力を封じるのに、余計に邪悪な力を与えてしまう棘を、背中に刺してしまう意味がわからない

①本来は普通の棘であったのが、強い力があるカラバの背中に刺されてしまったことによって、カラバはその痛みと苦しみから逃れる為に感じる苦痛を力に変換してしまった
②なにか魔法か呪力か不思議な力が宿っている棘だと知らずに、カラバに苦痛を与えてやろうと思った男たちがそのまま背中に刺してしまったら、カラバはより強力な力を得た
うーん、個人的にどれもしっくり来ないし、物語が始まる以前の設定だとしてもなんだかハッキリしなくて、なんとなくモヤモヤする

③カラバの背中の棘を物質的なものではなく、なにかの象徴やメタファーだと考えてみることにする

カラバは、大きい青年となったキリクに求婚された歳に、「お前もどうせ結婚した女を召使いのようにこき使うのだろう」というような意味の発言をしている。
キリクは、だれも召使いになんかしないよ、と言い返すが、カラバは、お前はねでも他の男たちはどうだろう、と返す。
こういう発言は、男性によって実際にそう言う目にあったり、そのような状態の女性を見た事がないと出てこない言葉だと思う。
カラバは、さらった男たちを貪り食うと噂されていた。本当は手下である使い魔の呪い鬼たちに変えてこき使っていたのだが
これは、女性や自分を苦しめていた男性という存在に対するに仕返しなのでは無いのだろうか
もしかしたら、この「棘」は男性から女性に対する
性的な暴行(複数の男性に取り押さえられて、身体に無理やり棒状のものを入れられる、という暗喩とも取れる) や、暴力的な行為、男性から女性に対する抑圧なのではないのだろうか、と感じた。
そして、その打たれた「棘」の苦しみ、痛みから逃れる為に、邪悪な力に変換しているとしたら?

(ここから先の文章は、男性から女性に対する不当な行為、行動、抑圧やましてや性的な暴行を決して肯定するものではありません)

現実には、辛い思い出(上記の()内のものに限らない)にしがみついて、またはあまりに辛いために自分を守ろうと自我の拠り所にしてしまって、歪な人間に出来上がってしまう人もいる
現実的な対処で、この痛みや苦しみを取り除く方法が分からない、(自力で棘を抜くことが出来ない)そんな時・・・
だから、私は選ばれた苦痛を抱く人間、私は高尚な人間なのだ!そう思うことで、痛みや苦しみから目のそらし、なんとか心を麻痺させて、生き長らえようとする時がある
カラバの大いなる邪悪な力はその発露なのでは無いのだろうか
だが、苦痛を拠り所にしても長続きはしない、ゆっくりだが確実に、心を蝕んでゆくだろう
無意識にいつまでも、傷つけられた瞬間の自分を反芻しているのだから
その様子が分かったら、他人に痛みを手放す必要がある、と言われる時もあるかもしれない、
痛みを手放す時、(棘を抜く)には時にそれ以上のダメージを追う事もある・・・

この解釈だと、ラストのキリクによって棘が抜かれるシーンからカラバが結ばれるくだりは、男性に傷つけられた痛みは、それ以上に立派な男性に受け入れられることで、傷が癒される、という男性至上主義的な、何も解決していない感じにも受け入れられてしまうが、ミッシェル・オスロ監督や制作スタッフが、何をどう考えて作り上げたのか、まだ本当にハッキリ分かっている訳では無いし(アートブックとか無いんだろうか)、仮に私が感じたような事を作品について込めたとしても、1998年の作品なので、制作側の方でそこまで理解が追いついていなかった可能性もある
このシーンは、個人的にはどちらかと言うと、神話、民話、御伽噺の大団円を目指す良い意味で典型的なラスト、自分以外の存在の一切を嫌い、誰にも受け入れられなかったカラバが、初めて自分を慮ってくれたキリクと出会い結ばれる幸せな結末、邪悪な存在の魔女と善良な存在であるキリクが結ばれた事で、正負のバランスが保たれ、世界は均衡を保ち(いきなりゲド戦記みたいだな)物語は終焉を迎える、といった意味を込めて描かれたシーンに見える

棘が深くまで打ち込まれていて、手ではなく歯でないと抜くことが出来ない、というのは正直よくわからなかったので、(爪よりも歯の方がくい込んで抜きやすい?)こういう事ではないのかという人の意見があったら是非聞きたい

ここまで書いて、考察や解釈と言っても、どうも自分にとって都合の良すぎる解釈をしてる気がかなりあるが、こんなところまで見てくれた親切で、かなり奇特な方ありがとうございます。

ブラザーズクエイ・短編集Ⅲ〜鼻腔に黴と埃の臭いが纏わりつく奇妙な世界でマラソン一周〜

「櫛、(眠の博物館から)」
横になっている実写の女性映像から、サルバドール・ダリが描きそうな幻想的でシュールで陰鬱で温度が全くない砂漠のような場面へ
ダリもだけど、ベクシンスキーとか人の無意識の狂気や悪夢を描いた絵画のような世界観

(個人的にダリは夢や無意識の不可解さ、不気味さ、ベクシンスキーは、人の魂や意識の根底には、恐怖そのものが眠っているという前提で、その精神の深層世界を這い回る捕食者たちというイメージだが)

現実世界と思しき寝具の中の女性のシーンはモノクロなのに、人形のコマ撮りシーンはカラフルで、
この女性にとっては、現実より夢、空想、妄想、おとぎ話の中の方が綺麗な世界である、という考察は陳腐すぎるかな

人形は肌や見た目がボロボロなのに、中のグラスアイは新品のようにつやつやしている。

寝ている女性の四肢の動きと連動するように変化する人形の世界
現実より夢の世界の方が素晴らしい、と言うよりは、眠りによって個人の意識から解き放たれたクオリアが無意識下の世界を放浪するという感じなのかも?

深い眠りに落ちていても、どこからか響いてくる男性の大声(家族が大声を出し、それが女性の寝室にまできこえてきている?過去の嫌な記憶をフラッシュバック?)によって指をぴくぴくと反応させる女性。
現実世界で男性に抑圧されている女性の願望的な面というか、夢の中で自分の精神や傷を癒そう、救おうとしているのかも・・・?

目覚めるために梯子で上に昇っていく人形(女性の夢の世界の人格や無意識?)
男性の怒号で起こされたのかな

BGMの弦楽器の音に合わせるように、目覚めた女性が櫛の歯を親指でいじる
確かに、プインって似たような音出るよね
意味深な最後のワード「森の目」・・・なんだそりゃ
(ローベルト・ヴァルザーの作品見たら少し分かりやすくなるのかな、軽く調べてみたけどどの作品が該当しているのかよく分からなかった)


「人為的な透視図法、またはアナモルフォーシス(歪像)」

他のクエイ作品と同様、お馴染みの人形も出てくるが、冒頭の説明にあるように、アニメーション、2D的な表現をより意識した作品であり、当時の特殊な絵画作品や、それに使用された技法をクエイ兄弟の映像的手腕でユニークに紹介されている。
これまでのかなり抽象的な作中の文章説明とうってかわり、普通の説明的なナレーションもあり、視聴者にとって一番丁寧で一番分かりやすい作品かもしれない。

美術の教科書に乗っていない、有名な美術館に収蔵されていない、どこの記録にも残っていない、何処の人の目にも脳にも記憶されていないだけで、歴史の狭間に埋もれた素晴らしい作品が沢山、それこそこの地球上の砂の数より、星の海に浮かぶ礫の数よりあるんだろう。
けれども、どれだけ当時や今や未来の価値観で、素晴らしいと言われる作品でも、この世に存在する物質である以上、少しずつ破損していずれ、全くの無に帰ってしまう。
この二人は、時の魔の手から残されたそういった一つ一つの代物を拾い集めて、より人の心に遺されるように、この映像作品を作ったのかな、と思った。

作中に「アナモルフォーシスは人の解釈を操る描法だ」という説明があったけれど、この兄弟の作品も多少方向性が違うだけで、根底には同じものが流れていると思う。
だからこそ、クエイ兄弟は、アナモルフォーシスという技法に惹かれて、この作品を撮るきっかけになったのかも。

「不在」これはもう、完全に全く意味が分からんかった・・・
今更言うのもなんだけど、クエイ兄弟は、忍び寄る緊迫感というか、不安だけれどそこまで不快な感じはしない、むしろ心地よい不快さ、というか。
普通の映画のドキドキハラハラするシーンが、ぶちまけられたガソリンに引火寸前なものだとしたら、クエイ兄弟のそれは、誰もいない廃墟で雨水の溜まった容器が人知れず音もなく倒れて、ボロボロになった床や絨毯に染み込んでいく、それを誰も見ていないし確認していないので、私たちにとっては無いも同然なのだけれど、影の世界で起きたその現象自体は、それ自体は確実にある、みたいな、そういうのをそのまま、なんの感傷に浸る暇も与えてくれずに、撮るのが上手いよね、という事を再確認した映像だった
でも、この「不在」は、空中にたむろしている小蠅の群れに頭から突っ込んでいって、最初は羽音や顔に止まる小蠅の足の感触が不快だったけれど、仕方なしにそのまま我慢していたら、耳や鼻の穴から入り込んできて、脳ミソかじられていたみたいな感じが少し強いかも
(自分で言ってて意味わからなくなった)

最後のシーン、施設から夫へ「来て、あなた」と手紙を書いた。
何らかの精神的な病気の症状があり、入院か隔離されている人(女性)の目線から見える世界、なんだろうか・・・?

「ファントム・ミュージアム―ヘンリー・ウェルカム卿の医学コレクション保管庫への気儘な侵入」
字数的には、ギルガメッシュ叙事詩を〜(略)の次くらいに長いが、これはまだ分かりやすいタイトル

ヘンリー・ウェルカム卿という人物の実際のコレクションを使って撮影しているのだろうか?
(調べると、製薬起業家、収集家としてかなり有名な人みたい。全然知らなかったのでお恥ずかしい)

だとしたら、医学的にも歴史的にも貴重なものばかりで撮影中のちょっとした事故で破損したら、賠償額がとんでもない事になりそう、と一視聴者でしかないのに余計な心配を。
(損害賠償と言うけど、その品物が今日までその姿を保たれてきた事に意味と価値があるわけで、本当の意味ではお金ではあらがえないよね・・・)

映像的には、金と余暇を持て余した奇特な(ちょっと悪趣味が入ってるとも言える)蒐集家のコレクション紹介映像と言ってもいいと思う。

つーかどういう経緯でこの作品を撮るようになったんだろう。
元々、クエイ兄弟がヘンリー卿のコレクションに興味があったのか、それかこの二人の作風を知った、現在コレクションを保管・管理している人物か団体から依頼が来たのかな・・・

医学コレクションと書いてあるけど、ほとんどが性にまつわるものだな。
アジアっぽい顔つきのなんだこれ、春画をそのまま立体化させたような置物(?)もあるので、アジア諸国や中国や日本のものも相当数コレクションの中にあるのかしら。
変な形の容器の中に男女の2人組が入ってるものは、
蓮根を模したものなのかな?
なにかアジアの言い伝えを元にしたものなのかもしれない
蓮根は根(株)で増えるし、花は綺麗だし多産や回春などの象徴だったのかも
「歯」が着いていて、隙間に突っ込んだら確実にナニがズタボロになる貞操帯うげー
ヴァギナデンダータかよ
まぁ女性にそんな酷いことをするやつが悪いんですが、当時はこれくらいしないと女性の貞操を守れないぐらいの治安だという事だろうし
でもこれも多分男性から女性に強制着用、しかも俺の妻になる女には、自分一人でたっぷり味わうために清らかな処女でいてもらわないとな!という違う部類の暴力でもあるよなぁとか感じてしまった。

そういう行為やものに直接的に関連しているコレクションを使って、性交▷妊娠▷出産▷赤ん坊という一連のシーン模してるな

妊娠している女性の中に母胎の中にいる胎児や内蔵も確認することが出来る人体模型
どれくらい前の、どの国のどの地域のものというのは具体的に分から無いし、 当時の医学的知識を元に作られたと思うので、現代で正しいかどうかはともかく、木彫りなのにとても精巧で驚いてしまった
出産中に母子ともに亡くなってしまった遺体を解剖して、それを参考に作られたのかな・・・

ひいいいロボトミー手術なんかで、頭蓋骨に穴を開けるドリルだァァァァ
こういう道具にも一定の華美さというか、洒落た感じの見た目をしているのなんなの一体
いや、当時はこれが正しい方法だと思われていたのかもしれないけどさ
や〜やっぱり頭蓋骨開けるのに、このドリルじゃないと気分上がらんわ〜とか言ってるマッドサイエンティストしか浮かばねーよ

故人を偲ぶモーニングジュエリーの一種として、故人の髪をそのまま使ったり、細工されたアクセサリーは結構あったようですね
現代日本人的価値観からすれば、髪には情念が宿る(髪の伸びる呪いの日本人形とか)ので気持ち悪いとか思われそうだが、髪を使うを人体や動物の毛を食べる虫とか湧きそうなのでそれを含めて保存する技術なども私はこういうの素晴らしいと思うな

途中、子供のミイラも出てきたので、もしかしてこれは、ようやく待望の子宝に恵まれたのに、出産後に子供をなくして、母親がその髪をモーニングジュエリーに、という事なのかしら・・・

それで最後に、男性の上半身を模した模型(これは恐らくコレクションではなくて、撮影用に制作したオブジェだと思われる)喉仏の辺りから肉を取り出したのは一体?



自分が好みなのは圧倒的にⅠとIIIなんだなぁ
IIは、(主にスティルナハトシリーズが)ヴィジュアルよりも哲学的な内容に全振りしていて正直ついていけなかった
Ⅰは、大体が物語仕立てになっているし、クエイ兄弟短編集おためし編と言った感じであれでも多分、俺達の作風はこうだぜ!と分かりやすいように説明してるんだと思う
IIは、なーんか随分とついてこられるやつだけついてこい!と奥までかっ飛ばして行ってしまった感じ
言うなれば、ⅠスタートでとIIIゴール、IIがスタートから1番遠い距離の、一周コースのちょうど半分のところところみたいな
(もっと上手いこと説明しろよ)

ブラザーズ・クエイ短編集Ⅱ

「ストリート・オブ・クロコダイル」
大型の機械や足踏みミシンなどが稼働している状態をずっと眺めていられる人は、好きな映像だと思う(私も好き)
ヤン・シュヴァンクマイエルもそうだけど、話がよく理解出来なくても、ただ見てるだけでも楽しい、不思議と快感を得る映像を作れるのって、地道にとんでもない才能なんでは
なんとなくだけど、この兄弟は物の構造に興味のある子が時計を分解して親にめちゃくちゃ怒られた、みたいな事が何回もありそうだな・・・
そういう、子供じみた解析欲や分解、また組み立て直すしてパーツとパーツがピッタリハマる時の快感に満ちてる映像だと思う

撮影の小道具にベッタリこびりついてるカビとか、ホコリとか、どうやってつけてるんだろうな
まさか、作った後に放置して自然と着くようにしている?
カビはまだ分かるがホコリは撮影準備期間を考えると難しいのでは

綿毛とか氷とか、時間が経つと変化してしまう素材を使うのが好きだよね
あと針とかも・・・

男性ががらんどうの人形頭のテーラー達に取り囲まれて、頭を人形達と同じようなものにすり替えられてしまう
あっじゃあ周りのがらんどうの人形頭のテーラー達ももしかして、頭を変えられただけで元々はもっと別の人で、こんな無個性な感じじゃないのか・・・?
と思っていたところに、あれ?元の男性の頭に戻っている、というシーン

なんか視聴者の思っている通りになんかなってやんないよ、という製作者の意地を感じる
(男性が人形達に取り囲まれている間に、自分も同じような無個性な存在になってしまった錯覚に陥ったのかもしれない)

あー映像に生肉を使うのめちゃくちゃ、ヤン・シュヴァンクマイエルからの影響を感じる
いい感じにキモチワルイ

人形達と男性の絡みが、どことなくエロティック
ブルーノ・シュルツの大鰐通り、そのうち読みます
(お前いつもそれ言ってるな)

ちなみに、この作品と原作について、興味深いものがあったので、自分のツイートで恐縮ですがこちらを貼って起きます。
https://twitter.com/QNpzcHeyiagTnVV/status/1531784218614767618?t=M-ZmkBthnvRSdI0R_x89Tw&s=19

「失われた解剖模型のリハーサル」
額にある、一本だけ粗末な毛の生えた出来物を、ずーっといじっている人形
これまでの作品では、一目で人間とわかるぐらいの要素を残した人形が登場していたが、この作品では体が、グネグネと曲がった針金で表現されていて、顔にも赤子のような無垢な輝きがある目玉が一つあるだけで、他の器官は潰れているような印象、まるでオブジェのような風貌をしている
辛うじて人がたと分かるくらい
普通の人でも固まったカサブタを弄ることぐらいはあるが、それよりも、少し脅迫的な観念がありそうだ
弄っているうちに、その鼻毛のような長さの毛が抜けてしまう
途端に周りのものから、黒く細長いもの(毛というよりは線)が伸びてくる
うーん、この人形にとっては、この短い毛はただ一つの熱中できるもの、財産で、それが抜けてしまったから、代わりに周りのものからどんどん生えてくればいいのに!という願望なのかなぁとぼんやり思った

黒いストライプ模様とか、分厚いボール紙でいかにも作りました感前回の段差とか好きだね
なんなんだこりゃあ、2人(男女?)の生活を窓から監視して書き記している?
そのペンを持ち高速で動いている手がイラストで、コラージュのような要素を加えているのがいい

たまに現れる白く小さい卵は、部屋の中の男女の、子宝に恵まれる事や子供が欲しい願望を表している?
ずーっとベッドの中にいる女性に見える方が、すこしふしだらに見える開脚をして、男性が振り子のように女性の股の間に、卵を揺らす
んー、男性の睾丸から精子が作られて、性交渉、着床、妊娠という事の暗喩かな
という事なら、まさかのセッ●スしないと出られない部屋なのでは・・・
阿呆な事言ってるけど、なんかこう少子化対策で政府の役人監視の元、選ばれた男女は性交渉しなければならない、とかは飛躍しすぎかなぁ・・・
もしかして、出来物を弄ってる人形は、これから産まれてくる2人の赤ん坊で、けれども五体満足で産まれてくるのは叶わなくて・・・みたいな感じなのかもしれない

「スティル・ナハト─寸劇」
金属製の細かい繊維を、磁石を使って動かしているのか、面白い
新しいストーリーを見る度に思うんだけど、タイトル含む、始まる前のスタッフロールがどれも違うので、めちゃくちゃ気合い入ってんな
撮る度にスタッフ変わるので、その度に作るんだろうが、世界観、雰囲気に合うもので、前のものと被らないものだと作るの大変そう
なんかそんなこと思ってたら、直ぐに終わっちゃった!

「スティル・ナハト2─私たちはまだ結婚しているのか?」
ハート(まさかこの2人の世界にハートが出てくるとは思わなんだ)、兎のぬいぐるみ、ソックスと可愛らしい靴を履いた少女の足
これだけで、単純な自分は不思議の国のアリスにしか見えないんだけど
なぜ、少女は足しか移されないのか→そろそろ生理が来る年頃で、自分の体のことが気になってしまう
棘の冷えた指と、ハート型のラケットのようなもの→排卵の痛み
そして煩いハエのように飛びまわる卵→卵子の象徴
少女の動きを真似する兎の滑らかな動きがすごい、可愛い
ドアの向こうからバンバンと人の手が→少女が大人になることを待ちわびている人達、だがまだ少女は大人になどなりたくなくて、少女の幼児性を表している白兎が反抗してドアを叩き返す、みたいな
あと、海外ではどうなのかはよく分からないんだけど、アリス的なモチーフでボーダーソックス(この作品だと日本のサブカル作品でよくある黒白ニーハイとかではなく、子供が普通に履く柄の短いソックスだが)というと、原作やモデルになったアリス・リデル本人よりかは、商業的なキャラクターのアリスというイメージがあるので、人の手で魔改造されすぎて、成り果てたアリスを食い物(また新しいデザインや概念をくっつけて、ビジネスにしようと)にしようとしてる人達なのかも・・・
原作(地下の国)は、黒髪おかっぱ黄色いドレスなのに、テニエルの挿絵版が有名になったので金髪ブロンド、青色ドレスのほうがすっかり有名になったし、でずにーにの映画やら、諸々の作品のキャラクターデザインを経て、いまの世の中に氾濫するアリス像はめちゃくちゃだし、そこもアリスというものの魅力の一つなんだろうけど・・・
だからこそ、このスティル・ナハトでは、少女の下半身しか映さなかったのかも
よく分からなかったけど、自分はこう感じた
この2人の作風に対して、考えることを放棄してんのかと言われるくらい陳腐だし、少女の初潮を神聖視してる気持ち悪いおっさんみたいな解釈になっちゃった

「スティル・ナハト3─ウィーンの森の物語」
うーん、これは本当によく分からなかった・・・

「スティル・ナハト4─お前がいなければ間違いようがない」
あのハートのラケット再び、これは「スティル・ナハト2」の後の話なのかな
(この2人の作品で時間軸の定義というものはどれぐらいまで通用するのか分からないが)
少女の足の間から、血が垂れてくる。あーやっぱり生理なのかな
鍵穴から部屋を覗く、髑髏のような恐ろしげな人物
少女の卵(卵子)か、少女の無垢性か体を狙っている不審者?
虫かご(鳥かご?)に入っている卵を狙おうとするが、兎によって阻止される。
最後に、兎も少女の靴の踵に開いた鍵穴から何かを覗いている
なんだか目付きがオス全開になってしまっているようで、この兎ももう少女を守ってくれる存在ではなくなってしまったのかな。

Ⅰと比べるとⅡは、アクセル全開!という感じだった
Ⅰの時点ではまだ(比較的)分かりやすい方で、エンジンかけたばっかりだったんだ

ブラザーズクエイ短編集 Ⅰ 感想〜まち針は萌えキャラ〜

「人工の夜景​───────欲望果てしなき者ども 」

タイトルからしてキレキレである

それに続く言葉、シュルレアリスムの詩・・・なのかな?
ロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)の「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい」という言葉を見た時と同じものを感じたので

夢の中なのか、想像の中なのか、浮遊感を表すためにあえて人形を浮かせて歩行シーンを撮るのいいね

街の中で男が一人目を閉じて佇んでいるというよりは、男が頭の中で実際の街の様子を思い出して(それか男の頭の中にしかない街)いるという感じ

造形はそこはかとなく不気味だし、動きも最小限でぎこちない(多分意識してやってる)のに、どことなくエロテイック
この男性は電車(実在するのか、男性の心の中にしかないものなのか分からないが)に恋をしているのか?

「厚いひだを縫って、(中略)私だけの秘密が現れた」
列車の車窓風景に聖母がこちらを咎めるような目付きの顔が見える
これらの描写と、タイトルの欲望果てしなきものども、まるで自分とその行いが罰されるに相応しいと思っているような・・・
異状性癖者の背徳的な、恋慕の対象とそれに抱く痴情と行為を指している?

全体的に、そんなに深い意味はなくて、二人の撮りたいものを純粋に撮ったという感じがするなー

ヤン・シュヴァンクマイエルの部屋」

(アンチンボルド風に)の文字列を見た時に、あぁ確かにと思った。
もし現代に、マニエリスムを代表するジュゼッペ・アンチンボルドが生きており、ヤン監督の存在と作品を知っていて、造形や映像を撮ることが出来たら、本当にこのような映像を撮るのだろう。

頭の上に開いた本が乗っているような人物、アンチンボルドの絵画にもこんな感じの作品なかったっけ?(あった「司書」だった)

チューブやらブラシなどの入った紙袋を広げる、見かけによらず少しずつ所帯染みていて可愛い

そうだなーほかの普通の人間が、人形みたいな見た目だとしたら、ヤン監督はこのような歪な機械仕掛けの神様みたいな感じなのかもしれない
子供に頭を開けさせて、空想を見る神様?

(オブジェの追求)、ヤン監督って映像撮る他にオブジェとかも作ってんのよね。
それを表してるのかな(撮影用に使うオブジェの事を指してるのかもしれないが)

なんつー手の込んだ引き出しだよ
わーいご飯だご飯だーみたいに角砂糖背負って持っていくまち針の群れ可愛い
まち針は萌えキャラ

(このシーンだけ見ると、ソ連時代に制作されたマッチを使った反戦映像作品を思い出す。)

突然始まる箱の中身はなんじゃろなゲーム
正解はァ〜蜘蛛でしたぁ〜って言われて、箱を避けたらこんなに大きい蜘蛛が入ってたら、(標本でも)自分だったら絶叫すると思う
蜘蛛の入ってる箱に「element」と書かれているのは何故?
蜘蛛の蜘蛛の毛を触って、狐の毛皮?もみの木?と言ってるシーン可愛い
(兄弟からすると、ヤン監督は蜘蛛の毛から狐の毛皮やもみの木等を感じる事ができる感性の人、と言いたいのかも)

(ちなみにこのシーンは、ヤン監督のYouTubeオフィシャルアカウントで公開されています。
https://youtu.be/ehfRYQ0K-vM)

もしかして、頭部の空いた人形がクエイ兄弟で、「司書」のような人物がヤン監督だとしたら、ヤン監督に映像技術を習いたいという願望なのかも

目玉と「司書」の頭部とそっくりな、開いた本を人形の頭の穴に入れる→ヤン監督から兄弟が影響を受けた事の暗示?

ギルガメッシュ叙事詩を大幅に偽装して縮小した、フナー・ラウスの局長のちょっとした歌、またはこの名付け難い小さなほうき」
長い
タ イ ト ル が
長 い
最近のラノベのタイトルなんて目じゃない長さ
あと長さの割に情報量が全然なくて、全く意味が分からない
たんぽぽの綿毛を食べるところ好き

キメラのような怪物が飛来

女体らしきものが描かれた机に付属した、幻灯機のようなレンズを覗くと肉片、また引き出しからどう見ても女性器の暗喩ように蠢くもの
昭和のえろシーンみたいなムーディすぎて逆にバカっぽいBGMが流れてるので、これは完全に異性を覗くとか、ひとのオカズを見てしまったとかそういうことでは無いのだろうか

罠(?)が作動して上の電線に引っかかる怪物
「女性器」の入っていた引き出しから、コオロギを取り出して外に投げ捨てたのは誰?
ここで初めて、
この世界(?)って箱の中みたいに狭いのね、このアヴァンギャルドな髪型の人物は外に脱出するために、羽が欲しくて怪物を罠にはめて殺したのかしら?

分かんねー全然わかんね〜
エログロナンセンスとか、シュルレアリスムとか、意味なんか知らねぇ!要らねぇ!伝えたい事はそれなりにきちんとあるが、寧切丁寧に分かりやすく説明なんかしてやらねぇ!個々人で勝手に感じろ! てかんじの作風だわ

押井守&天野喜孝「天使のたまご」〜究極の「雰囲気を楽しむため」のアニメ映画

(※アートアニメーション感想と書いていますが、ブログのジャンル表記を増やしたくないので、あくまで便宜上。本作品は、世界観や雰囲気、背景美術や演出がとても研ぎ澄まされていて、そこが素敵でアーティスティックだととらえる人もいるでしょうが、制作側が、アートアニメーションとして制作した訳では無いと思います。(自分は))
Amazonプライムに入る前々から作品を鑑賞していたが、この度Amazonプライムビデオから見られなくなるというので、ついでに見て感想をしたためる。
※こんな感想見るより、本作のWikipedia見た方が、各媒体に掲載された情報がまとめられて分かりやすいです。マジで。

〜究極の「雰囲気を楽しむ」ためのアニメ映画〜
この言葉は、世の中では大体いい意味で使われてないと思う。
中身や、処世訓や教訓がないとか。
(なんか教訓を得たりとか、「泣ける!」とか特定の感情状態になるため「だけ」に作品見るなんてクソ喰らえだと思ってるけど)

でも、このアニメーションは押井守監督が自ら、そういうものを目指して制作した節があって、(曰く、物語以前の何かを、表現のみで成立するアニメを実現しようと試みた、(Wikipediaより引用)らしい。
だから、この言葉はこのアニメに関しては、肯定的に受け入れてもらえると思う。
(こういう時にWikipediaからしか引用元がないのってどうなんだ)

冒頭、卵とともに眠りについていた少女が目覚める、その卵は一体何なのか?なぜ少女は、卵を持っているのか?本当になんの説明もないね。
これは、押井守監督が子供の頃お母さんに、
「女の人は生まれた時からお腹にたまごを持って生まれてくる」と教えられた事から、発想したイメージ(これもWi略)らしいので、まんま、女性が女性として生まれ落ちた時から体内にある卵子の事なのかなぁ(これもWikiに書いてあるね、意味あるのかこの感想)
個人的に、男性の精子は成長してから作られるが、女性の卵子となる細胞は、元々備わっている、という違いになんか気持ち悪いと思った。
女性が妊娠する前提なのが、体から勝手に約束されてるのが、なんかうへーって

ちなみに哺乳類は体が形成される時は、全部メスで、その後いくつかはオスに変化して生まれてくるらしい。(ジェラシックパーク知識)

この女の子、世間一般的に言う美少女ではないが、あだっぽさというか、妖艶さがあるのに可愛いよな
髪ボサボサだけど、こんな荒廃した街にシャンプーやリンス、ヘアオイルなんてないもんね・・・
なんか、この子設定としてお母さんやお父さんは死別して既に居ないとかなんだろうけど、それを抜きにして、いきなり世界にポツンと「少女」というか弱さ、はかなさ、耽美さの存在そのものとして現れた感じがあるんだよなー
それこそ神様に作られてぽっと誕生した天使みたい
(ていうかこんな雰囲気ある幼い子が一人で歩いていて大丈夫なのかとか考えちゃう)
天野さんのキャラデザの凄さよ

この水を貯めてるビンは、まんま子宮の象徴だろうなぁ形もそうだし

この戦車どう見ても男性器の象徴・・・、勇ましく男性性に溢れてるもの、弾(精子)が出てくる棒状のもの。(なんかフロイト先生みたいになった)
少女の方に重砲を向けながら、何台も通っていくのは、処女や年端もいかない女の子に凶器ともいえる性欲をぶつける男が、世の中にはいっぱい居るってことかな

戦車から降りて青年登場、なんか戦車の配線が生き物の触覚みたいにピクピクしてる、やっぱちん(ry
戦車から降りて、少女と同じ目線にまで降りたのは、この時点では、少女を性欲の対象として見ていない、同じ立場の一人の人間として見ている、ということ?
(あくまで自分の感想だが、深読みしすぎてる気が)

ビンの中に残された、赤い液体(赤い木の実を絞った飲み物かもしれないし、赤い塗料かも)を捨てる少女、生理の暗喩だろうな。
街灯の光に水の中の空気が向かって行っているように見えるシーンは受精かな
何でこの子は、水をビンでしか飲まないんだろ

ジャムをやたらと艶めかしく食べるねぇ、栄養足りてるのかしら
この子はなんで誰にも教えられてないのに、たまごは暖めるもの、と分かっているんだろう
水の波紋の反射が、影となって少女に写るシーン幻想的で大好きだー

青年、卵大事なものなんだからお腹に大事にしまっときなよー、はお年頃なんだから、(君をいやらしい目で見る奴もいるんだから)気をつけなさいよ、的な?
少女なら抱えるほどの大きさの卵を、青年が片手で差し出して、少女が自分でスカートを捲りあげて、卵を服の中に仕舞うシーン、ちょっとフェチズムを感じる

卵の中身は割ってみなければ分からない、痛みなくして得るものなし、みたいな諺外国になかったっけ
青年は、クソデカ戦車から降りてきたけど、自分の剣(これも男性器の象徴?)は手放さないんだね
作中だと、治安も悪そうだから護身用なのかもしれないが

ついてきちゃだめ!という割にどこか嬉しそうな少女の顔、可愛いけど、なんかつれないフリして男を誘う女じみてきたな
なんで青年はビンの中の水を飲まない?

雨が降ってきて、青年の方を振り返る少女、
青年、入るかい?みたいに自分のマントを翻す、
少女、つんっとそっぽを向く
魚を追う大勢の男達に怯えて、青年のマントの中へ、あっと思い青年から離れようとすると、青年は少女の肩へ優しく手をかける
少女、安心してニコッと微笑む
可愛いい可愛いぞ

魚ってキリスト教のシンボルとして捉えていいのかな
魚、なんでよくあるシルエットじゃなくて、古代魚(シーラカンス)の姿なんだろう
もう(絶滅して)居ない、影、集団で追う、「魚なんて、どこにもいないのに」という少女のセリフ
皆、太古の昔に失われたものが復活して欲しいという、妄想を見ている?
魚、捕まるどころか、男達の無茶な捕獲行動によって街が破壊されるだけ

教会の中で光に包まれる少女、受胎告知かな?
こういうアニメーションには珍しく、成功、妊娠、出産、生命の神秘を辿る〜みたいなかんじじゃなくて、結構時系列バラバラなんだよね

魚の形に残されたステンドグラス、真実はあるということ?
押井守監督ってなんか鏡すきだよねー
捕まえられもしない影の魚を追う男達と、鏡に移る自身の姿を見て微笑む少女、(イマジナリーフレンド?)醜い現実に生きる大人と、夢と空想に生きる子供との対比を入れたかったんだろうか

serial experiments lainのレインちゃんといい、片方だけお下げの髪型って、なんか惹かれるなぁ。
レインちゃんは、幻聴を防ぐために片耳を隠すようにおさげにしてたけど。

隧道、胎内巡りみたいなイメージ?
GITSもそうだけど、生命の木、カバラ的イメージ大好きだよね監督
「忘れてしまうほど遠い昔」というセリフで何故か、この青年は彷徨えるオランダ人みたいに、寿命で死ねず歳も取らずに、ずっーと旅してるんじゃないかと思った。
青年の手、布まいてるのは何かの怪我?剣を握るため?と思ったけど、もしかしてこれ釘打たれたあとじゃあんめーな
階段に沿ってビンを置いたのは少女の仕業?
なんか、子供の遊びと言うよりは、罪を贖うために延々と置いてるみたい・・・
「集めたビンの数だけいるのかな」首を振る
他の人が置いていったビンを真似して、少女も置いている?

出た!押井監督お得意の胡蝶の夢表現!
本当は僕達は存在なんかしていなくて、もっと別の大きな何かの見ている一時の夢に過ぎないんじゃないか、それを自己と同一視しているから・・・ずーっと手を替え品を替えそれが根底のテーマにあるよね
それを病んでる考え方だ、腹いっぱい暖かい飯食って寝ろ、みたいな時なさそうこの監督は(褒めてるよ)
そういう作品があることで救われる命が今ここにあります。

あえて、動きと表情と声の演技を少しずらしてんのかな
天使って、実際にいたら姿は綺麗だろうけど、骨になったら怪物だよね→実際に怪物でしたみたいな感じなのかも
青年この生き物大っ嫌いなんだろうな
(おれも山尾悠子女史の作品から、天使や人魚には不気味な怪物のイメージしかつかなくなっちゃった)

少女が卵にする仕草に、それは外の風の音だよ〜とかいう青年の言い方、完全に意地悪なニュアンスを含んでいる。
やってたらできちゃって、反対されても産みたがってる彼女を見る時の、彼氏の目付きじゃん
いつまでそんなもん抱えてんだよ的な、

「貴方はだあれ?」「君は誰だい?」ここに来て急に日本神話の国産みみたいになる。
女の方から声をかけているので、生まれるのは・・・
おっさん達って石像だったの?
あ、これ剣の鞘じゃなくて十字架だわ、さんざ見てるのに今更気づくとか
卵を割るシーン、前までは、ゴウカンや破瓜を意味するのかなって思ってたけど、今みると堕胎を強制するとか、暴力を振るうとか、(肉体的にも精神的にも)力で従わせる、というようなその他ありとあらゆる、男が女にできる酷いことを全部含んでいるのかなって

ここの「あなたはだあれ?」はあたしの知っている人は、こんな酷いこと出来ない、しない
だから貴方なんて知らない、知りたくもない、かな

また鏡合わせ(片方は大人)、その自分と口付けをする。イノセンスのOPに近くなったね
少女は、(破瓜か現実と相対する)痛みを知って大人へと変貌する。男と女に別れた人間が、完全な1人(雌雄同体)になるイメージもあるような。
街にいるのは男ばかりで、眼球状の不気味な機械?太陽?祭壇の上にいるのは女ばかり
その上に、少女の姿の石像ってことはあの女の子の小女性というか、子供の部分はもう死んじゃったってことなのか

大地の形が方舟型・・・「ノアの方舟が陸地をみつけられずに」、中の人間や動物の数が増えていってしまって、ずーっとどんどん大きくしていったのかな

少女と青年の存在も、出会いも、世界のシステムに予め組み込まれているんじゃないかと思った。
映画に娯楽性や、最低限きちんとしたストーリーが読み取れる作りになってないものは見たくない、という人にはまったくオススメできない。
むしろ、映像作品というものは、キャラが何らかのストーリに沿って、動きや感情を示すというのが大前提な現実世界なんてナンセンスだぜー、夢と現の境界が大変曖昧な作品がだーいすき!な人間にはとてもオススメできる。
高尚な雰囲気を出しているが、独りよがりなオタクが好む代物でしかないのでは、と言われたらそれまでなんだけど、こういう作品も世界にあってもいいじゃない、それが豊かさってもんだよ。
いつかちゃんと「少女季」を読んでみたいな

イギリスのアニメーターMark・bakerの作品「The hill farm」感想。〜丁寧な暮らしなんて熊の胃の中に捨てちまえ〜

田舎住まいの、農家の夫婦の起床から、話が始まる。
なんか、のどかな生活で生き生きしてるなんてもんじゃなくて、日々の仕事に忙殺されているような、 目が死んでるというか、生きている上で何も感動がなさそうな顔。

動物達(特に鶏)の動きもデザインも可愛らしくデフォルメされてはいるが、餌を食べる様子がほとんど貪る、という感じで少し気色悪い。

いや、家畜たちの草を食う動き怖いて、凄い毟ってる。周囲一体禿山になる勢いなんだけど。
生命の豊かさ云々より、食欲の浅ましさを感じる。

作者の、うぉぉぉ俺は田舎(自然)やそこに暮らす動物の、ほんわかゆったり暮らしているなんて世間の幻想を委ねるイメージになんか迎合しないぜ!とい
う気概を感じる。

いや熊でかすぎんだろ バケモンじゃん
こんなサイズの熊いたら、シャレにならねーわ
でも確かに熊の肉体的脅威感を表現するとしたら、あんな怪獣みたいな大きさの体躯になる気がする・・・

「The・village」もそうだけど、もしかして作者リアルに田舎出身だった?作品の随所から、田舎と自然と動物なんてこんなもんだよ、(なんつーかそういうものにナチュラルなイメージを持って憧れる人に冷水を投げかける感じじゃなくて)淡々と、ごく淡々と、自分の目からはこんなもんです、という、主張のように感じる。

うーん、カメラで写真ばかり撮っている都会からの旅行者?は、なにかのレンズ(物理的なカメラや他の情報媒体って意味でも、偏見やレッテル貼りを通しているという意味でも)越しでしか物事を見ていなくて、自分の目で物事を見ない人の事を風刺してるのかな
作者がもしそういう意図で入れたなら、分かりやすいをゆうに越して、雑な皮肉描写って嫌いなんだよな。フィクションで溢れ過ぎて食傷気味だし。
都会のこういう頭軽そーな人たちってこんなもんでしょ?って
認識から一歩も動いてないだけって感じがするから・・・

んー、ずかずかと森に入り込んでいく、そこに住む生き物達の領分が分からないというか、どこでも自分用に用意された被写体として見てしまっているような。

森周辺の描写とか、フラッシュで一瞬だけ写る洞窟内とかの背景美術が少しユーリィ・ノルシュティンに似ていて好きだな、細かい版画絵という印象

ばかばか猟銃撃ってる貴族(金持ち?)集団はなんなんだろう、自分の権力に酔いしれてる人?
撃つ鳥がいなくなったら従僕(?)も撃っちゃうシーン、獲物を撃つという娯楽に熱中しすぎて見境が無くなった、人の命であっても、一時のゲームなので彼らは構わない、という面もあるかもしれないが、どちらかというと、そういうシュールなギャグ描写として受け入れた。
(ちょっと、王と鳥の冒頭シーンを思い出した。暴君やそれに似た立場の人が鳥を撃つのは、海外ではけっこう一般的なのかな)

おい!嫌な予感してたら、熊なんか撫でるな!死ぬぞ!
この旅行者、さすがに、無知すぎる・・・。
全ての動物はお前が可愛がるためだけに存在してるんじゃないんだぞ。

洞窟内の真っ暗な感じがいい、エッチング画みたい

どぅわー!勝手にやって来て、勝手に熊を連れてきて、農家2人(+羊飼い)を危険に晒すんじゃねー
大雨だけがデカすぎる熊を退散させた
やっぱ自然の力にはかなわねーよとかそういう感じ?

暴風雨の描写が凄いな、風によって雨が、天体の動きみたいに円を描いている
動かすの大変そう・・・
こんな時でもうごくのは力持ちの羊飼いだけなんだね、旅行者も銃バカスカ集団も迷惑かけたんだからちったぁ協力しろよ
夫婦はなんか受け入れてるぽいけど

羊飼いの家めちゃくちゃじゃん、一人だけ頑張ってたのに、可哀想だ。
いや、家そういう組み立て方してたの?また荒らしが来たら壊れない?
むしろ、壊れたらまた直すだけだから、別に頑丈に作らなくても良いのかな・・・
(沖縄の、台風が来る度に倒れてまた立ち上がるサトウキビみたいな)

貴族の猟銃、雨に濡れて不発。
人間の作った武器なんてそんなもんだよー大自然にはかなわないよーという意味かな
撃ったら種(飼料)出てくるし、鶏パクパクだし、雨と一緒に入っちゃった?
現実の悪意によって人を殺す寸前の武器も、こうなればいいのになぁ
(ラウル・セルヴ ェのアニメーション作品、クロモ・フォビアに似たシーンなかったっけ?と思い出した。あれも痛快。)

自宅でそれぞれ眠りにつく、農家夫婦と羊飼い、旅行者と貴族と視聴者にとっては、少しだけハラハラする展開ばかりだったけど、この三人と、それを取り巻く大自然の環境にとっては、いつもと同じくらいの営みに過ぎないのかも。

「The・village」と比べると、田舎に住む純朴な人達とその営みは尊いもので素晴らしく、都会や俗世や金に塗れた、旅行者、貴族たちの行動は厄介で思慮が欠けている、といった偏ったステレオタイプの描写に少し寄りすぎている感じがしたが、こういった表現の際に作者の、痛烈な批判(それもよくある)できる自分w みたいな痛々しさというか、嫌味な感じはしなかった
そういう自分の涎まみれの口の中でくちゃくちゃした思想をぶちまけたものがマジで無理なので、作品に組み込むならもう少し自我の匂いを消せ、と思う
この作品自体、丁寧に作られているからかな
逆に、農家夫婦の感情の起伏が全くなさそうな生活で、都会の人が抱くほど丁寧な暮らしなんてもんはないよ、どこに住もうが、生活は生活だよと言いたい、そんな面もある?
本当に、凄く淡々としている作品だった、視聴者は画面を通して、いろいろと思いながら夫婦の生活や、他の人の行動を見ているわけだけど、物理的な意味では、もしかしたら作中の周囲の森からの視点なのかな・・・